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日露戦争100周年

乃木神社

赤坂(現:乃木坂)にある乃木将軍の自宅跡に乃木神社が建立されている。

 

乃木将軍は明治、大正、昭和前期まで日本国民に深く尊敬され仰慕された国民的英雄であった。

西南戦争、日清戦争そして日露戦争と活躍し、明治天皇からの信頼もこの上なく厚かった。

日露戦争で第3軍司令官として旅順を攻略した乃木将軍は文武両道の神として奉られている。

 

乃木将軍は日露戦争という国家存亡の危機に際し、軍の魂とも言うべき軍紀の維持に心血を注いだ。

自ら軍紀を実践し部下の模範とならんとした。

 

 

 

乃木神社の隣には乃木会館がある。

見学中に2組の結婚式が執り行われていた。

乃木邸は乃木将軍が明治12年に購入し、明治35年に改築したものだそうだ。

 

中には入れないが周囲に歩道がつけられ室内を窓から見ることが出来る。

 

乃木将軍殉死後、遺言により東京市にご自宅が寄付され、神社の建立とともに保存されている。

旅順攻囲戦や奉天会戦において戦死した遺族を慰めて歩き、少しでも生活に苦しんでいる者があれば、惜しげなくお金をあたえたという。

乃木は多額の俸給があったが、生活を質素にし俸給の大半を戦死者遺族への弔慰、旧部下貧困者の生活費等のためにつかったのである。

乃木でなければ

乃木大将と敗将ステッセル 水師営会見

 

旅順要塞の陥落 遂にステッセルは降伏し、水師営にて両将の会見が行われた。

会見の様子を写真に撮りたいという米国従軍記者の要請に対し

「敵将に対して無礼である。後々まで恥辱を残すような写真は、日本の武士道が許さない」
とのべ、結局ステッセルや参謀に帯剣を許したこのスナップだけが撮られたという。

この会見の様子は昨日の敵は今日の友の唱歌となり有名である。



戦後、乃木将軍は、「人徳は素晴らしいが軍事的手腕は無能であった」といった評価があるが、それはすべてまちがいであり、後知恵である。

難攻不落の旅順要塞を攻略するには、長い時間と多くの将兵の犠牲なくしては為しえなかったのである。

乃木の鉄心と第三軍将兵の国を守ると言う不屈の闘志により為しえたのである。

 

そして乃木の人徳があったからこそ多くの将兵は、命を預け、突撃していったのである。

要塞攻略の難しさがわからない大本営では乃木更迭案が出た。

しかし、明治天皇は「乃木を替えることはならん!」
「辞職させれば乃木は死なねばならぬ。」と申され、乃木の更迭はなくなった。

 

そして3年間は絶対に落とせないと言われた旅順要塞をわずか半年で落としたのである。

明治天皇は乃木でなければ旅順を落とすことができないとわかっておられたのだ。

 

二百三高地と旅順の陥落なくして日本海海戦も奉天会戦の勝利も無かったのである。

 

ここに乃木御夫妻が殉死したときの血の付いた衣類などが納められている。

乃木希典、乃木静子御夫妻

乃木将軍は多くの将兵を犠牲にしてしまったことを激しく恥じ、申し訳なく思い。

明治天皇の御前で復命書を奉読中「臣ガ終生の遺憾」と述べ落胆嗚咽絶句したという。

 

大正元年9月13日、明治天皇崩御の後を追い御夫妻で殉死された。

長男勝典中尉は南山総攻撃にで、次男の保典中尉は二百三高地攻略戦で戦死されている。

26歳、24歳であった。

 

殉死して二人の息子の元へ行ったのであろう。

乃木将軍は西南戦争のおり、天皇より下賜された軍旗を奪われたことを

一生涯恥続け、その時以来切腹する覚悟であった。

明治天皇が崩御され、ようやくその思いを果たしたのである。

 

 

小さい資料館があり、そこにあった乃木将軍を悼んだ句があった。

いさぎよく 今まで見えし 秋の霜

きえて 朝日の光まばゆき

 

乃木将軍をいたみて   椿山荘老生

 

※ 参考文献:日露戦争古写真帖 新人物往来社

                              乃木希典 高貴なる明治 著:岡田 幹彦  展転社

 

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byいとま放浪記